と。そこで彼が振り向いた。
「馬鹿言っては困るよ。こっちは金払ってるんだ。」
彼はそう言い終わらないうちに又、向こうの窓の外を見つめていた。外は雨。梅雨入したじめじめとした陽気がつづいている。
彼は口をよこに歪め少し笑った。チケットぴあ店員山口さんは困っていた。この目の前にいる勘違い野郎をどうするか。
「ですから、ご予約番号がわからないとですね・・。
お名前と電話番号でも結構ですので。」
「おれの名前を聞いてどうする。・・ははーんさては貴様スパイだな。早くチケットを渡さないと後悔するぜ」
本気である。チケットぴあ店員山口さんはほとほと困り果てていた。
6月の雨の日であった。
そもそもの発端は、3日前の真夜中だった。「〜か?受け渡し場所を指定する。〜のロックコンサートがある。座席指定券だから、チケットぴあで受け取ってこい。予約ナンバーは、〜〜だ」
彼は、そのナンバーを頭脳に書き留めた。しかし、そのナンバーは予約番号にないと目の前の店員は言う。
仕事を果たせなければ、金は手に入らない。手に入らなければ…
伝言を伝えてきた男は、同業者でライバルでもある。ここで彼が失敗すれば、利益を得る男だ。目の前の店員には悪いと思う。しかし。
彼は、必ずチケットを手に入れなければならなかった。
しかし、彼は知らない。彼のこの事情が彼自身の妄想で、
電話した男が、困った余り口裏を合わせてしまった彼の兄であることを。
「もういい」彼はカウンターから離れた。と、そのとき彼の右手が0.05コンマ秒動いた。チケットぴあ店員山口さんがカウンタのなかで崩れるように倒れていくその時間、彼の兄は友人と飲んでいた。
「で、話しを合わせたのか・・」
笑いながら話す彼の兄。友人は心理学者だ。
「康彦。あまりからかわない方がいい。」「話しを合わせるのも必要だって言ったのは山田だぜ。いや・・・先生と呼ぶべきかな。」
小さい頃から妄想癖のある雄介を新しい精神病と判断したのは
大学で同じサークルだった山田洋介だった。今では大学病院の精神科の医者だ。
「うん・・そうだった。ただ彼の場合・・」
洋介はこの雄介の新しい精神病のレポートで学会に認められた。
何としてもこの病気を治したいと思っていた。<妄想性性格同一障害>
妄想によって生まれた性格が身体をも変化させてしまう。
これに気が付いたのは、友人である康彦の家にいった時だ。
まだ高校生だった彼に初めてあったとき、何となく
もうよみ終わった本をプレゼントした。
3ヵ月後、次に家にいったとき不思議な感じに襲われた。
すっかり本の登場人物になっていたのである。
「やはりスパイだったか。」
頭脳に書き留めた番号と一致するチケットを手に
雄介は次第に騒がしくなる現場から早足で離れた。7/1 7:00 国立競技上ホール
1週間後だ。雄介は、最近この仕事に疑問をもっていた。
人を殺すことにはなんのためらいもなかったが
生きる意味みたいなことを考え始めていた。
ただ病気の兄、康彦の治療費を稼ぐために
こんな仕事をしているのだ。
兄、康彦の病気を知ったのは康彦の親友、山田洋介
から告げられたからだ。「そう、康彦はもう長くない」
治療薬として効果をあげている薬剤は、まだ厚生省では認可が下りていない。
そしてその即効性からか開発され販売されている国の中でさえ、
品薄で、価格も高騰の一途を辿っていると言う。「手に入れる方法が無い訳じゃない」
山田の口から告げられた言葉は、組織に加入し、その理念のために手となること。
「兄が、それで助かるなら」
即答した雄介に山田の歪んだ口元は見えていなかった。
<組織>がこの兄弟を使ってなにを企んでいるのかは
山田洋介本人にも解らなかった。ただ<指令>を待ち実行する。
このことに何の疑問もなかった。
施設で生まれ、今まで洋介の人生は<組織>の為にあった。
木ノ下兄弟に近づいたのも<組織>からの<指令>であった。
ただ<妄想性性格同一障害>のレポートで山田洋介自身が認められ
評価されることに一種の快感を覚えていた。
<組織>を裏切ることは死を意味する。それが、洋介の自我を抑えていた。「ああ、もうこんな時間だ。今日は会社に戻らなければならないんだ。
記事の残りがあってね。」弟を洋介に任せてよかった。そうおもいながら友人洋介宅を後にした。康彦は新聞記者だ。社に戻り記事をまとめなければならない。
彼はここ最近起っている無差別殺人事件を追っていた。
警察は気付いていないが、事件にはなんらかの共通点があるように思えた。
記者のカンである。「木ノ下さんまだやっていたんですかぁ」
記者仲間の森田涼子だ。<ねばりの涼子>と記者仲間では有名で彼女が担当した
事件はかならずスクープを出す。結構かわいいのに記者仲間はだれも手を出さない。<ねばりの涼子>にかかってはかなわないと言ったところだろうか。「例の奴。今日も渋谷であの・・チケット屋さん殺人事件。あれ今夜まとめないと。」
「ふーん。」
しばらく、康彦の記事を覗き込んでいた涼子が気が付いたように口を開いた。
「<組織>ってしってます?ちょっと気になっているんです。」
<組織>については康彦も気になっていた。
「じゃ飲みながら話すか。」
「そうこなくちゃ」
深夜。
チケットぴあの店員殺傷事件が報道に流れた。
家に帰った康彦と、飲んだ後の片付けをしていた山田は、
それぞれニュースを目にした。
「まさか…雄介か??」
「やってくれるじゃないか…そうなるんじゃないかと思ったが、なかなか熱演じゃないかい??」
山田は片付けの手を止めて、電話機を傍らに引き寄せた。
狼狽する康彦の言葉を待つべく。
が、康彦は酒こそ廻っていたが、比較的冷静だった。
たまたまかもしれない。もう少し情報を待って…trrrr。静寂の中、山田の家の電話のベルが鳴り響く。
だがそれは、延々と鳴り続け、受話器を取るものはなかった。
ふう。ため息をつくと友美は受話器を置いた。
仕事がある。そう言って友美のマンションから出ていった洋介のことを思った。
精神科医の洋介と知り合ったのはつい最近のことだ。
ミステリアス。自分のことをあまり話そうとしない彼にじょじょにひかれていく自分に気付いた。
ちょっとして友美は又受話器を取った。「はい。森田です。」
「あっ涼子?今、大丈夫?」
「うん。どうしたの・・?」
「あのさ…最近、どう?」
「どうって…」
涼子は、気だるく酔いの残った脳髄の片隅で生返事をしながら、やがてピンときた。友美は、こんな回りくどい物言いをしない。会いたければ、会いたい、という。考えておく、と答えれば、「じゃあいい」と即決する。そんな彼女が、「最近、どう?」ときた。原因は一つしかない。涼子は、受話器を肩に挟みながら、手元のグラスに注がれたスコッチに唇を濡らした。
「で、彼氏がどうしたって?」
「ちょ、ちょっと、何よ急に。何もそんなこと…」
「言ってるじゃない。で、何?」
「…」
図星。
狼狽する友美を、やや意地悪くからかい、次の週末に会う約束をして受話器を置こうとした時だ。友美の何気なく発した一言が、涼子の心臓を凍らせた。「<ADS>って、聞いたことある?」
<ADS>…… anesthetic drug delivery system.
麻酔物質伝達薬。
それこそは木ノ下が現在追跡している無差別殺人事件に深くかかわる、非合法神経系化学薬品……通称デス・スリーパー(死の睡眠薬)……被害者の生命活動を停止させた、即効性を持つ致死的な精神麻酔であった。薬理の専門家ではない涼子に詳しいことは分からなかったが、とにかくこの連続無差別殺人事件の被害者の肝細胞から検出される成分を分析した結果、この薬品の存在が浮かび上がってきたのだと聞いた。
それをなぜ、友美が……?「いけない事だっては分かってるんだけど」
そう前置きをした友美は、重い口を開いた。ミステリアスな洋介への興味を止めることの出来なかった友美は、電話の脇に置かれた白紙のメモを一枚、こっそりと取ってきたのだ。もちろん、それで何かわかるかもという大きな期待はしていなかったものの、それでも芯の柔らかい鉛筆で表面を塗りつぶすと。
「現れたのが、ADSと組織ねえ」
他の女性の名前でなかっただけましなのだろう。
「組織はともかく、ADSが何なのかさっぱりわからなくて」
記者をやっている涼子に聞けば、何かわかるかもしれない。洋介と連絡の取れなかった友美は、そう考えて彼女に電話をしたという。
「その、洋介さん?って何をしてる人なの?」
「お医者さんよ。大学病院で精神科の医師をしてるわ」
涼子の脳裏に、そのネタを追いかける甘美な誘惑と危険性を示唆する警告が同じに閃いた。
「その、メモってもらえる?調べてあげる。」
「ありがとう。仕事の電話だって彼は言ってたけど電話がかかってくると
出かけちゃうの。女かなって。心配で。女の電話でも出てくるかと思ったら
それでしょ。だから・・・。」
「わかった。今からいくわ。」
「さすがね涼子。行動派。」
涼子はマンションをでて、車のキーを回す。緑のゴルフだ。助手席にはカメラ。
小林友美のマンションまで30分とかからない。その緑のゴルフの後ろからゆっくりと車が発進した。「その、メモってもらえる?調べてあげる。」
「ありがとう。仕事の電話だって彼は言ってたけど電話がかかってくると出かけちゃうの。女かなって。心配で。女の電話でも出てくるかと思ったらそれでしょ。だから・・・。」
「わかった。今からいくわ。」
「さすがね涼子。行動派。」
涼子はマンションをでて、車のキーを回す。緑のゴルフだ。助手席にはカメラ。小林友美のマンションまで30分とかからない。その緑のゴルフの後ろからゆっくりと車が発進した。
「遅いな、涼子」
電話をしてから1時間が過ぎても、涼子はマンションにまだ来ない。つけっぱなしのテレビでは、売りだし中のお笑いタレントが良い子はまねをしないようにという注釈をつけながら、人体の限界にチャレンジしている。
道が混んでいるのかも。三十分を過ぎた頃はそう思っていたが、1時間もかかるとなると話は違う。来る途中に、何かあったのかも。事故か、それとも。友美は頭を振ってその暗い考えを脳裏から追い出した。きっと、涼子のことだ。一緒に飲もうとか思って、二十四時間営業の酒屋さんに寄っているのかもしれない。
それにしては、あまりにも遅いけれども。「あ」
もう一度溜息をつこうとしたその時に、玄関のチャイムが鳴った。自分の考えが杞憂に終わったことを喜びながら、友美はドアを開けるために玄関へ向かった。
友美が部屋を出たその直後、テレビから臨時ニュースを伝えるテロップが、画面の上部を薄暗くして点滅を始めた。